カテゴリー
政治・経済・社会

若い頃にコンピューターに触れてから、特に感動した瞬間や衝撃的な瞬間はありますか?

質問

若い頃にコンピューターに触れてから、特に感動した瞬間や衝撃的な瞬間はありますか?
私の叔父は3.1から95になった時はかなり衝撃的だったと話してくれました。

回答

Windows95は僕にとってももちろん大イベントでしたが、僕の場合、Windows95はまだChicagoというコードネームだった時、アルファ版やベータ版のテスターだったので、マイクロソフトから都度都度、開発中のバージョンが送られて来て、マイクロソフトに問題点などのフィードバックを返していたんだよね。

製品版が発売されるより前にマイクロソフトからゴールデンマスターももらっていたので、発売当日には僕のPCではすでにWindows95がサクサク動いていた😇。ベータテスターを長年やったOSなので、衝撃を受けるというより、やーっと世に出たのかというお祭り気分の方が勝っていた。

衝撃ねぇ。僕が最初にコンピュータに触れたのは高校時代の「AppleII」で、大学時代には「Fortran」という言語を学んだ。だけどこれらはすべてホビーで、自分の生活とは関わりがなかった。社会人になってもそのつもりだった。

ところが日経新聞社がデータバンク局というところで、今では「日経テレコン」になっている記事データベースサービスを始めたのを知った。当時、記者の過去のニュースの検索方法は、自分で新聞記事を切り抜いてスクラップブックに貼り付けたものが頼りだったから、これはすごいと思った。

そこで稟議書を通して、日経新聞社と契約を結んでもらい、IBM 5550とPC-98を会社に買ってもらった。専用線も引いた😅。確か1984年のことじゃなかったかな。こうして報道センターの一角に過去記事検索コーナーが設けられたんだけど、みんな恐れをなして近寄る人なんていなかった。2台は完全に僕の専用機🤣。みんなが何十冊というスクラップブックを引っ張り出して、過去記事をヒイヒイ探しているのを横目で、僕はデータベースで検索をかけて、結果をプリントアウトして終了。なんて便利なんだと思ったね。

それとほぼ同時期、パソコン通信ができるようになって、僕はとある草の根BBSに参加、コンピュータでコミュニケーションが出来ることに遭遇する。1985年から86年にかけてそれがASCIIネット、PC-VAN、Nifty-Serveという商用サービスとしてスタートした。

今だとアウトなんだろうけど、僕は自宅はもちろん会社でもこれらのサービスを利用する。Niftyでは某フォーラムのサブシスまで引き受けた。そうやっていろいろ情報交換していても、上司も同僚もなんのこっちゃ状態🤣。当時、米国にはCompu-Serveというパソコン通信があって、僕は国際電話をかけて米国のアクセスポイントからログイン😇、Compu-Serveに繋ぎっぱなしにして、米国の新聞社の配信記事を読み漁っていた。

当時、米国の政治や経済に関する情報は、記者もAP通信やロイター通信から送られてきた記事を、外信部が日本語に翻訳したものを読んで知った時代。それを僕はCompu-Serveの配信で直接読んでいた。確かシリコンバレーのローカル紙まで配信されていたな。これで僕は他の記者たちに対して米国情報では圧倒的な優位を築く。僕は当時政治部記者だったから、これは政治家との交流でも役立った。かなり重宝がられたから、やったね、と思った。

この1980年代、日本ではNECのPC-9801とその互換機が圧倒的なシェアを占める。しかしPC-98は日本語をハードウェア的に処理する仕組みだった。当時のCPUはまだ非力だったので、ソフト的に処理するのは大変だったからね。しかしその結果、日本では世界中で使われているアプリケーションソフトが使えない、といった不具合がいろいろ起きる。

この島国規格状態をなんとかしようという仲間たちの画策が始まる。今はなき秋葉原の喫茶店「古炉奈」などに集まって作戦会議を開いた。これが1990年、日本IBMがDOS/Vとして発売したことで身を結ぶ。やったね。

これで世界標準のIBM PC/AT互換機で日本語が扱えるようになったので、友人たちと台湾に行ってパーツを買ってくるようになる。当時の日本のPCはバカ高かったから、旅費を出して台湾に行き、美味いもんを食べて帰って来てもはるかに安く付いた。そして先述のWin/VでWindows3.1でも英語版での日本語表示ができるようになる。この方がマイクロソフトが発売する日本語版よりずっと高速だった。この頃はいろいろ面白かったし、刺激的だった。

次はNTTが国策として進めたINS/ISDN戦略に対して、村井純先生たち一部の大学教授や学生、エンジニアたちが秘密裏に反旗を翻したWIDE-Project、つまり日本におけるインターネットの推進。今では勝てば官軍だけど、NTTがINSを進める中でインターネットというのは、ちょっとしたタブーだった。1990年代前半の会合は幕末の志士の集まりみたいだった😅。

これがWindow95が発売される前年、東京都内で日本初のIX開設に繋がり、個人でもMacであればインターネットが利用できるようになった。僕はもちろんサクッと加入したよ。

ちなみにこの時期、ビル・ゲイツはインターネットがそんなにすごいものになるとは想定していなかった。だからWindows95ではインターネット機能は搭載されておらず、マイクロソフト独自の閉鎖的なネットワークサービスを搭載していた。しかし1995年ぐらいから急速にインターネットが普及、ゲイツは自分の過ちに気がつく。そこでWindows95の「アドオンパック」としてWindowsでもインターネットが利用できるようにした。これでインターネットの普及に弾みが付いた。

この時期、僕が遊んでいたのは、ようやく新聞社でも普及が進み始めたコンピュータで、ノートPCを持って記者会見に出席、会見場でその場で記事を書いて、PCMCIAのカードと携帯電話を使ってワイヤレスで記事を会社にいるデスクに送信すること。今では当たり前になっている風景だけど、当時これは記者クラブで禁止行為にするかテーマになった😅。

記者会見場で記事を書いてその場で写真付きで送ってしまうのと、会社に戻って記事を書くのとでは1時間は差が付くからね。僕にとってはシメシメ状態だった。これは記者のスタイルに革命が起きたとワクワクしたね。

この時期、僕は何十台もノートPCを購入してもらって、性能を比較したり、当時はバッテリー駆動時間が短かったので、市販のリチウムイオン乾電池でノートPCを駆動させる手法を試していた🤣。

衝撃ということで最後に付け加えれば、僕は1985年ぐらいから、海外最新情報の収集という名目で、毎年11月にラスベガスで開催されるCOMDEXというコンピュータの国際見本市に出張していた。政治部の記者には考えられない話だけど、この横紙破りは「米国事情通だから」という理由で許された。

当時、コンピュータ業界は草創期だったから、行けばビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズがふつうにいて、アポを取ればふつうに話が聞けた。COMDEXではまだ試作段階の製品もたくさん展示されたから、これを見て回るのがとても刺激的だった。ブローシャーをダンボール箱いっぱいに詰めて日本に送ると、1年はコンピュータ業界の最新事情通でいられたもん🤣。

後にはCOMPUTEX TaipeiやドイツのCeBit、コンシューマー系のCES、ゲーム関連のE3などに毎年顔を出すのが僕の恒例行事になった。そこで知り合った人との交流の輪を広げていたら、気がついたら新聞記者ではなくIT業界の人になっていた😇。

相場予測noteを無料お試しできるキャンペーン!

  • 相場当てまくりの相場予測noteを無料で読める!
  • 秘密の爆益銘柄を無料でチェックできる!
  • 紙書籍が郵送されてくる!
  • 総額1万円相当を無料でプレゼント!

超豪華な特別キャンペーンをIG証券様が実現してくれました!

ダナハーちゃん
ダナハーちゃん
全部無料ですごい🐰❗
  • 私の相場予測を無料で読める!
  • 総額1万円相当のプレゼントを無料でゲットできる!
【見ないと損する!】無料で読める!非常に高い的中率の相場予測noteで爆益を掴み取ろう!【悪用厳禁】真似するだけで爆益!大好評の相場予測! 先出しで相場予測を公開しているので、誰でも簡単に真似できます! 私は東大を卒業後、大...

IG証券でしか取り扱っていない投資対象が山ほど存在するため、私のように幅広い投資対象へ投資するなら必須の口座ですね!私自身もIG証券を利用しています!

秘密の爆益銘柄がヤバい!

30倍超えの銘柄もある!

ブログの記事は全て無料で読めますが、相場予測noteに関しては有料記事となっています。

ダナハーちゃん
ダナハーちゃん
無料記事でもすごいなら、有料記事はもっとすごい!
▼相場予測・神託note

予言書とか言われちゃうレベル!?
驚異の的中率!爆益銘柄の公開!
別格すぎる相場予測を公開中!

カテゴリー一覧
カテゴリー内人気記事